《絵を描く人》
世界がすでにあった。私の知らない私がすでにあった。世界にいる私がすでにあった。
私は何枚でも写真を撮ることができたが、どの写真も撮ったつもりの視界とは違って、それだけでひとつの、翻訳不可能な記憶だった。
写真という画面は、私や、他人や、木や花や、風や光といった、あげればきりのない、世界を構成する一次的な存在として、手の中にやってくる。撮影者のなかに残る中途半端な記憶を、他人事として。
覗き、シャッターをきり、現像し、プリントするなかで徐々に私から離れていく原初的な撮る行為は、いま、ずいぶん省略された。離れるより速く、自分の記憶が薄れるより速く、像は手元に現れる。しかしやはりその一枚の像は、「私にとっての世界」「私の記憶」そのものではない。そのようなものはどこにもない。
写真と絵画は似ている。しかし、撮ることと描くことはあまりに違っている。撮ることは自分の視界から離れていく行為と得ようとする行為の奇妙な混ざり合いである一方、描くことは近づこうとする行為と墓標を立てて眺める行為の、やはり奇妙な混ざり合いだ。撮ることは像と鑑賞者(あらゆる、およびかつての撮影者)のあいだにズレ、疑問、他者性、違和感を浮遊させ、描くことは公私(他と私)のあいだに不可視なものを浮遊させる。
別々の行為は別々にあり、別々であるからこそ、双方の行為の意味合いを更新しあう。
すでに写真があり、私にも撮りたさがあり、それでも描きたさがあるなら、その上に描くしかないことを私は知っていた。ただ被さるしかないことを知っていた。撮ることと描くことを混ぜ合わせ一枚にすることは技術上可能だが、それはどちらの行為に対しても軽薄に思えた。双方が意味を失いながら重なり、それでもまた別のなにかが出来上がって、やはり世界に置かれていく。



(2018年、絵画検討会2018「絵画検討会2018 昔不可視だがしかし視覚化し可視/可視化された仮視だがしかし不可視」展にて発表。書籍『21世紀の画家、遺言の初期衝動 絵画検討会2018』収録) (C)高田マル / Takada Maru 2020. All rights reserved.
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